「開陽亭」の前身である函館の「丸も」

初代女将 宮松コウ

初代女将である宮松コウは、函館から小樽へ移り住み、明治29(1896)年に住之江町で発生した火災の後、「魁陽亭」の営業権を買い取り営業を始めます。
コウはその頃、函館で「丸も」という料理店を切り盛りしていました。

小樽商科大学グローカル戦略推進センター学術研究員である高野宏康氏が函館で行った調査によって、かつて「丸も」があった位置が分かる地図や関連記事、広告が発見されました。
今回はその調査結果について取り上げます。

明治〜大正期の函館

明治維新の実現により、名実ともに北海道の門戸となった函館。
港には外航船の利用に加え、青森-函館間を結ぶ「青函航路」の発着点として、また北海道内諸港との連絡起点として多数の船舶が入出港しており、函館は北海道におけるハブとしての機能を有していました。

当時の函館港には現在のように水深の深い岸壁などが無かったため、船舶は直接陸地に着くことが出来ませんでした。
そのため、船の乗客は連絡船を使って本船と陸地との間を行きし、そのほとんどは東浜桟橋(旧桟橋)を利用していたようです。
船の乗客にとって、その桟橋が北海道へ踏み出す第一歩だったことから、桟橋の近くには「北海道第一歩の地碑」が建てられています。

(現在の東浜桟橋と「北海道第一歩の地碑」。桟橋は岸壁の改良工事のため、2020年3月まで一時的に撤去されています。)

明治43年(1910年)2月、函館駅に隣接した大型の桟橋が完成してからは、連絡船を直接桟橋に着けて旅客の乗降が可能となったため、東浜町桟橋の利用者は半減し、東浜町桟橋は「旧桟橋」と呼ばれるようになりました。
しかし、青函航路以外の旅客や船員は引き続きこの桟橋を利用しており、北洋漁業の根拠地として重要な役割を果たしてきました。
特に大正から昭和戦前期にかけては、日露戦争後に得た露領の漁場や工場へと行き来する人々の乗降で旧桟橋周辺は大変な賑わいを見せていたようです。
大正3年(1914年)に出版された『最新函館名所写真帖』には、当時の東浜町桟橋やその周辺を撮影した写真が収められています。

かつて「丸も」があった場所

国内外の人々で大いに賑わっていた東浜桟橋周辺。
そのすぐそばに「丸も」は店舗を構えていたことが、明治30年代に描かれたとされる「函館港名家及び実業家一覧地図」から確認できます。

現在は観光客の姿をぽつぽつと見かける程度ですが、かつての桟橋前の道路沿いには商店や旅館などがいくつも建ち並び、明治中期から昭和初期にかけて函館の中心市街となっていました。
明治31年(1898年)に行われた調査によると、桟橋のある東浜町の地価は当時の函館で最高額となる1坪当たり71円(*)まで上昇したそうです。

(*)現在は明治期の物価に比べて3800倍とも言われているのでおよそ27万円/坪。


(旧桟橋前から日和坂方向。「丸も」は右側にあった。)

「丸も」はビールや寿司を楽しめる店としてかなり繁盛していたようで、明治34年(1901年)に発行された『函館港名家及実業家便覧』に広告が掲載されている他、明治35年(1902年)に発刊された『函館案内』では、「當港料理店の四天(店)王 」と紹介されています。


このような広告は、宮松コウが「開陽亭」の営業を開始してからも長い間続けて出されていました。
その後、「丸も」は明治40年の「函館大火」で類焼するまで営業を行なっていたようです。


(函館毎日新聞 1900年2月3日版より)

小樽の発展と「開陽亭」

コウが「開陽亭」の営業を始めた頃の小樽は、港湾都市として急激に発展しつつありました。

明治32年(1899年)に小樽港が外国貿易港に指定されると、全道から石炭や米、豆、雑穀、でん粉などが小樽へ集められるようになり、東アジア沿岸を中心にヨーロッパへ輸送されていきました。
外国貿易や物流の中心として発展した小樽運河沿いには数多くの石造りの倉庫が並び、小樽の活況を物語る風物詩になりました。

小樽の経済が活況を帯びていくにつれ、人口も増加し、お店の数も増えていきます。
「丸も」のすぐ近くで営業していた「キト旅館」(小樽市の色内大通りにあった老舗旅館。小樽市指定歴史的建造物にも指定されている「まるいち後藤商店」の南側にありました。)など、函館から小樽へ進出してくるお店もありました。

莫大な資産が集まるとともに、金融業の需要が高まり、色内町には日本銀行をはじめとした銀行が軒を並べ、後に「北のウォール街」と呼ばれる小樽の黄金期へと繋がっていきます。

このように北海道経済の中心が函館から小樽へと移行していく中で、コウは函館から小樽へやってきました。
コウが「魁陽亭」から「開陽亭」へと名称を改めたのは、こうした時代背景があったからかもしれません。
そして「開陽亭」は、コウから始まる3代に渡る女将によって支えられ、日本有数の料亭として花開いていくことになるのです。

参考資料
・『最新函館名所写真帖』(1914年)
・『函館港名家及実業家便覧』(1901年)
・『函館案内』(1902年)
・「『函館市史』通説編第3巻 第5編『大函館』その光と影」 函館市 : http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/shishi_index.htm
・遠田 諭「函館港 『本州と結んだ旧桟橋』」『日本船舶海洋工学会誌 KANRIN(咸臨)』2008年19巻 : https://www.jstage.jst.go.jp/article/kanrin/19/0/19_KJ00004979425/_pdf
・『三代目女将が語る海陽亭』(2003年)
・奥平忠志「港湾と都市の変遷 ―函館の場合― 」『東北地理』1976年28巻2号 : https://www.jstage.jst.go.jp/article/tga1948/28/2/28_2_124/_pdf

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