『後志国盛業図録』(1889年)に掲載された魁陽亭

1. 亭名の変遷

「魁陽亭」の創業

海陽亭は、安政の初期に初代越中屋旅館主人の乾児(子分)で元官船通済丸の賄い方をしていた松井という人物が、「魁陽亭」の名前で始めたとされています。
現在、海陽亭が建っている場所にはかつて神を祀る社がありました。この丘に海陽亭の建物ができたのは明治7〜13(1874〜80)年であると言われています。
魁陽亭の経営者の名前がはっきりと現れてくるのは、明治26(1893)年に発行された「小樽港実地明細絵図」で、「山ノ上町料理屋魁陽亭長谷川勝平」と明記されています。

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焼失前の魁陽亭 左手には倉がある。
出典 : 『流芳後世 おたる海陽亭』(北海道建築士会小樽支部、1992年)より

住之江大火

明治29(1896)年、住之江町の遊郭から大きな火災が発生し、780戸余りが焼け落ちました。
魁陽亭も例外ではなく、建物を焼失します。
この火災の後、函館から小樽へ移ってきた宮松コウが魁陽亭の営業権を買取り、亭名も「開陽亭」と改めて営業を開始しました。
ここから3代に渡る宮松家の女将の時代が始まります。

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水天宮の丘から見た大正時代の開陽亭
出典 : 北海道建築士会小樽支部、前掲書、1992年

3度目の改名

昭和7(1932)年頃、開陽亭は再び亭名を改め、現在と同じ「海陽亭」へと改名します。この「海陽亭」という亭名は、「製紙王」としても名高い藤原銀次郎の発案でした。
銀次郎は明治40(1907)年に三井物産の木材部長兼小樽市店長として着任し、樺太の森林調査や木材のパルプ材適否試験などを実施します。
その後、王子製紙へ移り専務取締役に就任。
昭和8(1933)年には樺太工業と合併させ、初代社長を務めます。
銀次郎は大変な海陽亭贔屓で、西側の母屋横に自分専用の離れを作ったり、三井家お抱えの名板前を連れて来て江戸の料理を海陽亭に伝えました。

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海陽亭の文字に変わっている地図 1932年7月30日作成
出典 : 北海道建築士会小樽支部、前掲書、1992年

2. 歴史の舞台としての海陽亭

1906年11月に行われた「日露国境劃定会議」後の大宴会
『小樽市史蹟樺太国境劃定会議誌』(1934年)に収録のもの

日露国境画定会議

明治39(1906)年、日露戦争後の「日露国境画定会議」が日本郵船小樽支店で行われます。
会議の後、海陽亭2階の大広間「明石の間」で大宴会が開かれました。
宴会場には日露両国の国旗が飾られ、両国の軍人、天文学者、測量技師を始め、小樽区長など小樽の人も出席しました。約六十人が集まり、名だたる芸者衆が接待に当たったと言われています。
宴会の席では、ロシア側の代表が「北海道は日本新開地なりと、而して其の開発の急激なる此の如し、日本人が精力の旺盛なるに感嘆す。」と小樽の発展を讃えました。

3. 海陽亭の最盛期

大正から昭和初期にかけて、小樽は急激な発展を遂げます。
その時代は海陽亭にとっても最も華やかな時代でした。

軍需景気


大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発すると菜豆類の主産地であるルーマニアやハンガリー、オランダなどが戦場となったため、北海道の豆類やでん粉などの海外需要が一気に高まりました。
それらの農作物は鉄道によって全道から小樽へ集められ、ヨーロッパへ輸送されていき、当時の小樽の雑穀輸出量は横浜、神戸についで全国第3位となります。
その結果、「豆成金」や「船成金」、「小豆将軍」が誕生し小樽の花柳界を闊歩しました。
昭和の時代に入ると、世界情勢は不穏な状態が続きます。日本も軍備の拡充と整備に力を入れ、それに伴って関係産業全体が活気を帯びました。
小樽にも次第に海軍の兵隊や将校の姿が多く見られるようになり、開陽亭は海軍の士官や文官の親睦、相互扶助団体である水交社としても用いられます。開陽亭はそのような情勢の中で「海陽亭」へと改名し、その文字の通り、海の街の料亭として親しまれました。

「北のウォール街」

大正12(1923)年、小樽運河が完成し港湾荷役の拠点となると、小樽はまさに経済の絶頂期を迎えます。
翌年には移輸出入総額も5億円の大台に達し、銀行預金残高も4,360万円になり、函館、札幌を凌ぎ全道一になりました。
莫大な資産が集まるとともに、金融業の需要が高まり、色内町には日本銀行をはじめとした銀行が軒を並べ、後に「北のウォール街」と呼ばれる小樽の黄金期となりました。
全日本空輸株式会社の代表取締役社長だった岡崎嘉平太は、自身の伝記『岡崎嘉平太伝』(1992)の中で、
「開陽亭は高級な料亭で、支店長だとかが行っていた・・・(後略)」と語っており、海陽亭は当時の銀行マンからも愛されていたことを伺い知ることができます。

4. 宮松家の女将たち

3代に渡って続いた宮松家の女将時代。
石原裕次郎を始めとする各界の著名人が多数訪問し、日本全国から世界中に至るまで、
海陽亭の名前がとどろきました。

初代 宮松コウ


函館から小樽へ移り住んできた宮松コウ(?〜1940)は、明治29(1896)年に住之江町で発生した火災の後、魁陽亭の営業権を買い取り営業を始めます。
非常に面倒見が良く、女将の顔を見たいと汽車で何日もかけて小樽まで来る人もいたそうです。

2代目 宮松幸代

昭和15(1940)年から宮松コウに代わり、宮松幸代(1896〜1979)がお店を切り盛りするようになります。
先代宮松コウから伝えられた、心のこもったおもてなしに触れようと、幾多の政、財界人が海陽亭を訪れました。
石原家との親交ができたのも幸代が女将だった時代からでした。

3代目 宮松芳子

札幌の白石で生まれた宮松芳子(1928〜)は、4才の時から実母の姉夫婦の家で暮らしていました。
父親である中島親三は小樽で「中島屋」という当時の海陽亭と並ぶ大きな料亭を営んでおり、芳子は18才の時に父親に引き取られます。
昭和29(1954)年、芳子は宮松家に嫁ぐのですが、当時は小樽から札幌へ人口が流出し、海陽亭の経営も厳しい状況でした。
そこで、芳子は海陽亭の再建に乗り出し、札幌や銀座へ出店を行い成功を納めます。
平成13(2001)年からは一般の方向けに亭内が自由に見学できるよう一般開放を行い、平成27年まで営業を続けました。

余白

現在の海陽亭

参考文献
・『流芳後世 おたる海陽亭』(北海道建築士会小樽支部、1992年)
・『三代目女将が語る海陽亭』(2003年)
・駒木定正「小樽の歴史的建造物No.72 道建築士会支部の調査報告『おたる海陽亭』」『小樽学』2017年10月号
・棚田誠哉『私の海陽亭』(1995年)
・『小樽市史蹟樺太国境劃定会議誌』(1939年)

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